The curtain falls
「ばあちゃんが亡くなっちゃったよ」
震えた声で、電話越しの母が告げた。
この前まで老人ホームに入っていた僕の祖母は、最近は病院に入院していた。そのときに医者には、もって3週間だと言われていた。それから3週間と数日が経過して、祖母はこの世を去った。ほぼ寿命と言っていいかもしれない。
残りの日数が医者に告げられてから、僕は毎週の土日のどちらかは帰省して顔を見せに行っていた。しばらく前からそうだったが、声をかければ「うんうん」と頷くものの僕のことをちゃんと認識してるかは分からない。そもそも老人ホームに入っていた時期は、僕が名前を名乗らなければ誰か分からない(思い出せない)状態だったが。
それでも祖母と会えることが大事だった。
幼い頃から僕の両親は共働きで、多くの時間を祖母に育てられた。いわゆる「おばあちゃん子」と言うやつだ。
祖母との瞬間的な画(思い出)がいくつも脳内に浮かび上がってくる。
そのときの自分の年齢は分からないが当時3才くらいだろうか。家から50mも離れていないところでピクニックと称して、田んぼの畦道にシートを広げて手作りの弁当を食べたことを覚えている。今思えば家のすぐそばなのに、子供だった僕は遠くへ冒険に出た気分になっていた。
あるいは祖母の緑の自転車の後ろにくくりつけられた子供用のシートから見えた、上り坂を一所懸命にペダルを踏む後ろ姿。
あるいは、昼食の時間になったので、離れにある畑で作業をしている祖母を呼びに行く記憶。
あるいは、朝食時に四人用のテーブルを父、母、自分、祖母でかこんで食事をするどこにでもある何気ない風景。
こう記憶をひとつひとつを取り出すと、次から次へと記憶の扉が開く。
もう10年ほど前のことになる。自分が高校生の頃だっただろうか。ある日、祖母は脳梗塞で倒れた。そこから猛烈なリハビリによって半身が一部動かないながらも日常生活に復帰を果たした。しかし身体の不自由さをきっかけに、その日から、ゆるやかに老いていったように思える。
時は流れて、2018年6月某日。その日はやってきた。
電話越しに、母から祖母の訃報を聞いた僕は、驚くほど悲しみにくれた。
家族の死は殆どの人が経験することだが、僕にとってこれがはじめての家族の死だ。入院したときから死を受け入れる覚悟をしていたが、母からの電話を切ったあとは涙が止まらなかった。そしてその後は心身を虚無的な感覚が覆った。「終わってしまった」と思った。こうして僕の中で連綿と続いていた祖母との平凡な物語に幕は降りた。
崩れた心はいつかは元に戻る。しかし悲しみを忘れる事が、寂しいと感じる。それでも幕が下りた劇場には背を向け、後にしなければならない。
青き日の思い出は僕の心の中にいまだに残っている。その影をずっと追ってきたような人生だった。ひとつ思っていることは「育ててもらった恩に報いなければならない」ということだ。
内面的な問題だが、成熟してないことに自覚的で、けれど年齢が成熟を仮構することに安心して、自分の未熟さを放任してきた。ゆえに未熟さから抜け出して成熟することが「報いる」ということだと思っている。
成熟の像は自分の中に明確に存在する。できるだけ早く、そこに辿り着きたい。
波の日
4月21日。
その日はいつもに比べ少し暑かった。僕は電車に乗って表参道に向かった。家からは程遠くない場所。渋谷GYREの3F。
落合陽一氏の個展
を見に行った。
開始2日目の朝イチで乗り込んだので人は多くなかった。もちろん人が少ないことを狙って行った。アート作品は人に邪魔されずゆっくり見たい。
写真を撮ったので、こちらにおいておこうと思う。
感想はというと「よくわからないけどスゲエ」というものと「よくわからないけど、やっぱり分からん」という物があった。
やはり一貫してるのは物がマジで存在するということだ。物体が浮く、液状の膜が輝く、本物と見分けがつかない疑似的な生体。現実そのものにテクノロジーで干渉していくのが落合氏の特徴だと思うが、それは「こういうことか」と体感できた。とても良かった。
ちなみに片隅で落合陽一氏本人が作業をされていた。邪魔するのも悪いと思い声はかけなかった。
そしてその足で、すみだ北斎美術館へとはしごした。葛飾北斎も良かった。はじめて北斎をちゃんと見たが、湾曲するパースペクティブと無限にも感じる遠景の描写が印象的だった。鑑賞後は作品集を買って帰宅した。
思えばこの日は多くの波の表現を見ていた気がする。
波の日だった。
【追記】
↓後日見つけた素晴らしい解説&インタビュー記事↓